勇壮な武士として後世に名を残した平景清公。
全国に景清公にまつわる伝説が残され、眼病平癒にご利益のある名所に景清公とゆかりのある場所がいくつかあります。
景清公が眠る「景清廟」をご紹介します。
平景清について
平景清公は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、平家に仕えていたことから「平景清」と呼ばれていたと伝えられています(正式名称:藤原景清)。
景清公は悪七兵衛(あくしちびょうえ:勇猛な武士のこと)といわれるほど恐れられ、治承4(1180)年から元暦2(1185)年に起こった治承・寿永の乱(源平合戦)では平家軍として奮闘しましたが、平家軍は壇ノ浦にて滅亡。
その後、景清公は戦禍から脱出し、源頼朝を討とうと鎌倉へ身を潜めます。
しかし警護の武士(源氏)に捕えられ、本来であれば死罪が科せられるところを景清公の平家棟梁への忠誠心と武勇を惜しんだ頼朝公は、日向(現在の宮崎県)に僧侶として追放しました。
日向で残りの人生を過ごそうとした景清公。
しかし東国(現在の関東地方)から遠く離れた日向の地でも源氏の繁栄が見られ、そのことに耐え苦しんだ景清公は、自らの両目をくり抜き、その両目を投げ捨てました。
景清公の両目は生目神社(宮崎市生目にある神社)に落ち、生目神社には景清公の両眼が祀ってあります。
※生目神社は「目の神様」として、現在も篤く信仰されています。
景清廟について
盲目となった景清公。
その後、景清公の娘・人丸(ひとまる)が父を求めて鎌倉より遠路はるばる日向を訪れ、盲目の父の看病をしたと伝えられています。
ところが、娘は27歳の若さで病死し、娘に先立たれたことを嘆き悲しんだ景清公は、霧島神宮の参拝に訪れます。
しかしその帰り道に病に見舞われ、62歳でこの世を去りました。
景清公の死後、景清公の父母、娘の人丸(ひとまる)、そして景清公の親子三代の廟堂が建てられました。
また本堂には景清公の位牌と生前に愛用していたと伝えられている琵琶が奉納され、さらに景清公が使っていたといわれている「硯石(すずりいし)」も境内に残されています。
毎年旧暦8月15日には「景清命日祭」が催されます。
自ら両目をくり抜いて源氏繁栄の世を見ることを拒んだ平景清公。
今日も景清公の墓前には地元の方によってお花が供えられ、眼病平癒のご利益を求めて参拝に訪れる人々も多いのだとか。
平景清公が余生を過ごした地を訪れてみてはいかがでしょうか。
※景清公の伝説は諸説あります。
ご利益を頂きたい方は……
過去に景清廟を訪れた目を患っていた人々は、ご利益を授かりたくて、景清の墓石や硯石を削り、目に擦りつけていたといいます。そのため、それぞれの石は不思議な形に削り減らされています。ですが今はそのようなことはせず、景清廟を訪れ、祈りを捧げることで、眼を健康にしてくれるとのこと。
>アクセス
宮崎交通バス「下北方」下車 徒歩約3分
JR「宮崎神宮」下車 徒歩約25分
>住所
宮崎県宮崎市下北方町塚原5836番地
>連絡先
宮崎市大宮地域事務所(0985-26-1120)
>備考
【拝観料】無料【参拝時間】自由